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日本商業新聞

【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -679- ラオスとの25年(2)

メコン河にかかる鉄橋をのろのろと走る列車を見ながら、通訳は「ラオスにも鉄道があります」と誇らしげに言ったが、あとでその列車は実はタイの列車で、ラオス国内を走るのはこの部分だけだということを知った。


たしかにラオスに鉄道は走っているものの、その走行距離はのべ1キロにも満たない、でもラオスの人はそれが自慢だった。発展途上国の人たちが抱く先進国への憧れは半端ではなく、肩を並べることが目標であり、喜びだった。いずれ先進国の文化がいかにつまらなく、重荷になることが分かるのだが、それは歴史を重ねなければわからないことだった。



それから25年、ラオスは高速鉄道で国土をぶち抜かれてしまった。もはや誰が何と言うが〝ラオスには鉄道がある〟。ただ古都ルアンパバーンと首都ビエンチャンが鉄路で結ばれたのに、駅は人里離れた所にあり、ラオス人が使うにはあまりに不便で、また料金も高く、利用するのは「一帯一路」を目論んでこの地に鉄道を作った中国人だけだと言う現実がある。


中国資本などに頼らなくてもラオスは着実な経済成長を遂げていた。その25年を団塊農耕派はNGOの活動を通してしっかりと見て来た。停電の時間も短くなったし、未就学の子どもも少なくなったし、ツクツクは電動式になったし、繁華街にはクレドポーボーテを扱う店まで現れた。隣国のミャンマーやカンボジアのような紛争も無く、敬虔な仏教徒中心に、世界にも稀な〝貧乏だが幸せな国づくり〟は進んでいた。団塊農耕派の関係するNGOにはその目標に沿って支援している自負もあった。だから急ぐことなど何もなかった。


しかし施政者たちは急いだ。アセアンの最貧国のレッテルを剥がしたかったのだろうか、中国の誘惑に負けてしまった。その結果、町は急速にチャイナタウン化し、中国語の看板が氾濫し、ラオス人の誇りでもあったフランス統治下に作られたフレンチコロニアンの建造物が、手動式織機が自慢の老舗の絹織物工場が、そしてメコンに沈む夕日が眺められる絶好の河川敷が無慈悲に壊され、その後に似たような無味乾燥な高層アパートが立てられた。そして中国から呼び寄せられた一族郎党がそこに住み着き、我が物顔で闊歩している。


悪貨は良貨を駆逐するというが、この事実上の中国支配はラオス人の国民性まで変えてしまったようだ。ルアンパバーンの早朝行事は托鉢に歩く数百人のお坊さんの行進だが、以前は観光ガイドがその時間に合わせて暗いうちから起きだして、お供え物の準備をしてくれたが、今はその作業は有料となり、ガイドは時間外の労働を嫌うという。25年前団塊農耕派が知り合った通訳の女性は空港で別れるまで四六時中かいがいしく動いてくれたが、今はそれを望むべくもないようだ。


またビエンチャンにはタラートサオという活気に満ちた国営の市場があり、ラオス各地の産品が売られていたが、今は中国産の商品が市場を占領し、雇われたラオス人従業員がつまらなそうに販売しているという。時給が倍になったから嬉しいと若い店員さんは言うそうだが、事実だとすればラオスにも拝金主義が芽生えてきたことになる。日本人の失った清貧の文化をラオスに見つけ、それに心地よく浸ってきた団塊農耕派の25年もピリオドを打つときが来たようだ。

(団塊農耕派)

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