「ボクは幼稚園に行っていない。大学院へ行くのはその分を埋めるため」とけっこう真顔で言ったものだから、聞いた人は不快に思ったに違いない。でも団塊農耕派がその程度の動機で修士課程に進んだことには違いない。
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当時、工学部は小金井市の郊外にあった。教養課程を横浜の日吉で終え、2年次から3年間ここで専門課程の勉強するのだが、そのあまりにオンボロな校舎には絶句の連続だった。
戦争で校舎を焼かれた工学部は、戦後まもなくある電機会社の要らなくなった工場を使わせてもらっていたが、その仮屋住まいが20年以上続いていたことになる。平屋建てで、冷暖房など無く、廊下は薄暗く、裸電球がやけに目立っていた。離れた敷地にある実験室に行くにはリヤカーに実験機材を乗せて行く必要があった。
それでも住めば都で、研究室から笑いが途絶えることはなかった。4年生になり就職試験の季節が来た。就職するつもりだった。ところがその就職すらまじめに考えてこなかった団塊農耕派に悲劇が訪れる。学生課に張り出された企業一覧に希望の会社が無いのだ。聞けばその会社の入社試験はすでに終わり、工学部の他の研究室から内定者が出ているという。
「嗚呼何たる不覚!」人生で初めて進路に悩むことになった。教授がいくつかの会社を推薦してくれたが、大学時代の研究を続けたくなく、すべて断った。地元に戻って就職することも考えたが、踏ん切りがつかず、結局、出した結論が「大学院でもいくか!」だった。
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幸い試験に受かり修士課程に進んだが、向学心の無い団塊農耕派に神はまたも試練を与える。工学部の移転である。慣れ親しんだ小金井から横浜日吉に移るのである。1年半に及ぶ引っ越しプロジェクトは修士課程に進んだ瞬間から始まった。引越しにかけた時間は半端では無く、2年の研究生活の大半をとられてしまったような気がする。卒業後、「大学では何を専攻?」と聞かれることがあるが「引越し工学です」と答えることにしている。
引っ越しが完了すると、団塊農耕派は新棟5階の実験室の片隅をマイスペースとして占領した。窓際に机を置き、外を眺めると遠くに新宿副都心が見える。まだ高層ビルは京王プラザしかなかったが、この時の爽快感は今でも憶えている。ところがこの時も自分の分別の無い意見が採用され、小さな悲劇が待っていた。トイレの場所である。
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たしかに新校舎を設計している人から意見を聞かれた時、「女子は極めて少ないのだから、各フロアに女性用トイレは要らないだろう。その分実験室を広くしたほうがいい」と言ってしまったのである。
その意見が採用され、言い出しっぺが責任を負えと言わんばかりに、研究室のある5階には女子トイレが設置されていた。2階と5階が女子用に、その他の階が男子用になっていた。驚いた5階の男性たちが抗議をしたが、設計が変わることは無かった。
当時の研究室仲間も、あとから入ってきた後輩たちも、5階に男性トイレの無いことにあきれ、そして怒ったが、その遠因を作った人物の探索にまでは進展しなかった。そして50年、新しかった校舎も老朽化し、改築の予定だと言う。女子学生も大幅に増えたことだろうし、きっと各フロアに男女のトイレがつくられると思う。完成したら見に行こうかと思う。
(団塊農耕派)
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