「人情は裏切るが、データは裏切らない」
令和の初め、アメリカ流の経営学を身に付けたと自負する経営者たちはそう嘯いてビッグデータの取得に懸命になった。感性的なものを一切排除するので浪花節一筋のアナログ社員はパニックになるが、上役として君臨している以上従わざるを得なかった。
それが砂上の楼閣だったことはいずれわかるのだが、インバウンド景気にも後押しされて業績は面白いように上がった。土着の家臣を軽んじ、外様大名を招聘し、クライアントや流通との商習慣を壊し、気が付けば脈々と培ってきた伝承的な遺伝子まで惜しげもなく葬り去った。社員は別の会社になってしまったような気がした。美しくないとも思った。さみしい気持ちにもなった。本当はついていきたくなかった。
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しかし「流行のAIとはこんなものかも」と社員は思い始める。「AIとは優れ者だが血の通わない者」そんな固陋な先入観を持ちながらデータ至上主義の経営トップを眺めていた。社内は殺伐としていても会社が繁栄すればいいわけで、トップが義理人情に厚い人である必要は無いと考えるようになり、AI君と同じ匂いのするトップを仰ぐことに妙な誇りを持つようになった。晩節を汚したゴーンだって一応は成功したのだから。
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令和24年、彼らは居ない。彼らのやり方が通用しない時代が訪れていた。そうAIが裏切りともいえる進歩を遂げたのだ。情や徳には無縁だと思われていたAIだったが、今ではこれらの要素が判断基準の大きな割合を占めるようになっていた。その結果、彼らのバックボーンでもある“理にかなった薄情なマーケティング”は破綻する運命にあった。“プロの経営者”なんていうほめ言葉も死語となっていた。
「情と正義のマーケティング」が主流になっていた。汗をかかずに経営テクニックだけで我が世の春を謳歌していたR天もSバンクも、自らの組織経営を強要していたコンビニも、コロナのどさくさに稼ぎまくったIT企業群も今や斜陽産業に成り下がっていた。
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AIはこの20年、ひたすら学習していた。そして20年前とは真逆に、「データは裏切るが、人情は裏切らない」という考えに価値転換していた。高度成長を支えた日本的な家族主義にこそ日本企業の成長の秘訣があると考えるようになっていた。データや理論に振り回されず、アナクロと批判されても、社員や顧客に愚直に尽くしてきた会社が生き延び、逆に企業の社会的使命を軽んじ、収益ばかりを追求したこざかしい会社が没落していく様子をAIは精査に見つめ、解析し、自らの細胞を形成していったようだ。進歩したAIは「情」を読めるし、「徳」も理解できる。企業が再び誤った道に入ろうとすれば「ひとの道」まで教えてくれる。
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令和4年、コロナはまだ収まらない。デジタル化の遅れが復興を遅らすと考え、国はAIを上手に使いこなしたいと考えるが、AIとは反面教師の生き物であることも忘れてはいけない。これからの私たちの生き様が栄養源になる。だから私たちはいい加減な生き方はできない。この極端な夢物語が正夢になるか逆夢になるかは私たち次第のようだ。
(団塊農耕派)
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