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日本商業新聞

【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -621- 東京球場

 若い頃頻繁に通った野球場、それが東京球場。大毎オリオンズ(今のロッテオリオンズ)のホーム球場で、東京の下町、荒川区にあった。後楽園でジャイアンツの勝つのに見飽きたファンが気まぐれにこの球場に足を延ばすのだが、その後の足取りは二極化していた。二度と来ない人が9割、自分の家のように通いつめる人が1割、団塊農耕派は後者だった。


 不思議な魅力があった。観客はほぼ地元民で、スタンドは地域のコミュニケーションスポットだった。買い物ついで、銭湯帰り、いろいろな人が集まった。ほとんどが男性で、女性の姿を見るのは稀だった。球場が狭く、そのくせやたら明るいので、選手の一挙手一投足を堪能することが出来た。汚いヤジに怒り、スタンドに乗り込む短気な選手もいた。


 忘れられない人がいる。飯島秀雄だ。彼は日本を代表する短距離ランナーだったが、何を思ってか大毎に入団した。打てない、守れない、彼の出番は代走しかなかった。その代走もスライディングが下手なので、最後は三塁から本塁を駆け抜ける役目しか任されなかった。代走飯島が投手の投球にあわせて、クラウチングスタートのポーズをとるという前代未聞のシーンが東京球場で繰り広げられた。団塊農耕派は何度もこのシーンを観たが、めったに成功しなかった。走り出すタイミングがどうしても彼には分からなかったようで、晩年は三塁コーチャーのゴーサインで走り出した様だが、いつも明らかなアウトで、観客の失笑を買っていた。それでも飯島はめげない性格で、三塁ベースに立つとうれしそうに手を振り、スタンドの観客と会話まで交わしていた。飯島が成功した日には赤飯を炊こうと呼びかけたファンも現われ、その雰囲気は東京球場独特の暖かいものだった。


 監督は濃人、コーチは与那嶺、野球ファンなら誰でも知っているプロ中のプロだが、彼らは南千住の駅から歩いて通っており、途中の蕎麦屋やコロッケ屋に気軽に出入りしていた。時々チームの4番アルトマンも加わったが、そこにファンが押しかけて交流することは無かった。適当な、しかし暖かい距離をとることを東京球場に通うファンは心がけていた。節度を持ち合わせていた。ちなみに草野球に励んでいた当時の団塊農耕派が背番号7を選んだのは、それがアルトマンと巨人時代の与那嶺の背番号だったからだ。


 しかし東京球場は10年でその短い歴史を終える。観客が集まらず、経営が成り立たなくなったのが理由だと言われているが、団塊農耕派はそれだけではないと思っている。観客の気質が10年で急速に変わってしまったのだ。高度成長とともに荒川区にも下町の良さを知らない上品な住民が増え始め、後楽園球場に負けないアミューズメント性を求めた。選手もスマートになり、観客と距離をとり始め、気がつけば下町球団の匂いが消えていた。


 町の化粧品店を斜陽の業態だと決め付け、東京球場と同じ道を辿っていると心配する人が居る。でもそう思うのならお店は東京球場を反面教師として栄光を取り戻す努力をすればいいと思う。地域住民を暖かく包み元気はつらつだったころの球場の心意気を学べばいい。そしてその後、薄情な住民に去られた理由を探ればいい。飯島の人生を変えてしまったような蛮勇も、お店にとって必要なら思い切ってやるときかもしれない。

(団塊農耕派)

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