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日本商業新聞

【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -678- ラオスとの25年⑴

25年近く続けた国際NGOの代表理事を辞めた。達成感と虚無感が相半ばしている。


産業が無く、学校教育も満足に受けられないラオスの若者に職業訓練を通して就業起業を支援するのがこのNGOの使命だったが、近年ラオスの急速な発展とともにその必要性は明らかに少なくなってきた。


むしろこの国のことを思えば、土足で入り込んでくる中国資本を追い払うことのほうが今は大切なのだが、それはもはやNGOの領域ではなかった。



日本の子どもが戦後20年くらいで青洟を枯らしたように、ラオスの子ども達もとても垢抜けてきた。もはや日本の子どもの着古した洋服など喜ばず、赤土の大地を裸足でフランスパンを売り歩く少女も、托鉢の坊さんに分け前をねだる少年もいなくなった。


進歩の無いのはむしろ〝与える側〟で、25年前の〝貧しかろう、ひもじかろう〟の感覚で〝慈善事業〟に勤しんでいる。だからラオス側のニーズを十分に汲み取れず、ときに誤った事業を企画して失笑を買っている。我がNGOのことではないが。



NGOに「継続性」というキーワードは要らない。〝与えられる側〟が満腹を感じれば、さっさと撤退するのが原則だ。たとえば職業訓練校運営のゴールは日本人がいなくなってもラオスの人たちだけで運営できる体制を作ることで、事実、団塊農耕派が関与した美容コースは今はラオスの人たちだけで運営されている。偽善のあとに親類や同胞を送り込み、利権を確保する中国の支援とは根本的に違う。日本のNGOの誇るべき美徳だと言ってよい。


ところが日本にも企業並みに「組織の継続性」にこだわるNGO団体が増えてきた。クラウドファンディングやSNSを駆使して財政の基盤を担保している団体だが、新しいNGOのあるべき姿として評価され、いまやNGO経営の指南役まで買って出ている。


そして手弁当持参で自腹を切るNGOは時代遅れと揶揄されている。どんなに崇高な慈善事業もお金が無ければ何もできないよと言われれば返す言葉はないが、団塊農耕派は共鳴できない。


そもそも支援される側の幸せとは何かという根源的な疑問にまで遡る。学校を作り、井戸を掘り、交通網を整備する…、これらにより現地の人は確かに豊かになるが、与える側が偽善者であれば、中国の例を見るまでもなくその後の不幸が待っている。



一方で本当に善意でなされた事業でもそれが住民の幸せになったかどうか疑わしいこともある。例えば前述の井戸掘りでも、子どもが水くみの重労働から解放され喜んでいる光景は実に感動的だが、その井戸が壊れ、修繕のメドが立たないケースがよくある。NGOはアフターケアが不得手なので、また修繕の費用を国費や寄付でまかなおうとするので、壊れた井戸は放っておかれ、子どもはまたもとの重労働に戻ることになる。一度楽することを憶えた子どもにとってその労働は以前よりはるかに過酷なものになってしまう。これは罪ではないかと思う。


昨今のNGOは決まって〝財政基盤の健全化〟や〝SNSを使った広報活動〟を口にする。企業と変わりない。要するに存続させたいと思っている。職員の雇用を考えれば当然かもしれないが、組織を維持するために不要不急な新たな事業を作って資金調達するのはNGO本来の姿ではない。NGOがアナログであるうちに身を引こうと思った次第だ。

(団塊農耕派)

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